藤原氏に「譲位」を迫られた円融天皇
紫式部と藤原道長をめぐる人々④
かねてより円融天皇が弟の兼家を優遇していると感じていた兼通は、妹で円融天皇の母である安子が存命中に「関白職は兄弟の順序に従うべき」ことを書状に認めさせておいたという。伊尹が危篤となった際に、兼通は円融天皇にこの書付を突きつけ、半ば強引に自身を関白に就けさせたらしい。
ところが、兼通も関白就任から5年後となる977(貞元2)年に病に倒れる。このまま弟の兼家に実権が移ることを恐れた兼通は、実頼の息子であり筆頭左大臣であった頼忠(よりただ)を後任として指名したといわれている。
兼通が病没すると、兼通の思惑とは裏腹に、兼家の存在が朝廷内でひときわ増すようになった。
兼家は自身の娘である詮子(せんし/あきこ)を円融天皇に入内させると、2人の間に生まれた懐仁親王を一日も早く天皇として即位させ、自らは外祖父として権勢を振るうべく策謀をめぐらし、円融天皇に譲位を迫ったらしい。
その飽くなき権力欲を警戒していた円融天皇は、兼家と距離を取り始めていたものの、唯一の皇子である懐仁親王を盾に取られ、やむなく兼家の要望通りに譲位した。在位は969(安和2)年から984(永観2)年の16年間だった。
その後、円融天皇は出家。自ら創建した円融寺で余生を過ごした(『栄花物語』)。和歌を作ったり、管弦を楽しんだりするなど、悠々自適な暮らしをしていたようだ。
986(寛和2)年、息子の懐仁親王が一条天皇として即位すると、のちの院政に通じるような権力を行使して藤原氏を牽制しようとしたものの、991(正歴2)年2月、病のため崩御した。33歳という若さだった。
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